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★ お雛様はもう飾られましたか (リソースボランティア 長濱

 仏像・仏面・仏画それにお香と抹香くさいいつもの居間が、お雛様を出した途端華やかで、ふんわりとした若やいだ柔らかな部屋に変貌しました。心まで華やいできます。いくつになってもひな祭りというのは女性にとって心躍るものなのですね。

 ところで皆さんのお宅の内裏様、どちらに男雛が座っておられますか。我が家は京風の飾り方で男雛を左(向かって右)、女雛を右(向かって左)に飾っています。関東ではこれが逆で向かって左が男雛、向かって右が女雛です。左上位か右上位かの問題です。思い違いでなければ、たぶん徳川美術館のお雛様も京風に飾られていると思います。唐の時代になって左上位が定着しました。日本の文化は唐の文化の影響を受け平安時代に確立し、その制度は左優先になりました。左大臣は右大臣より上席であり、左近衛大将は右近衛大将より上級です。見方によっては、心なしか左大臣のほうが老成化したお顔であり、右大臣は若さが表面に出ているように作られています。文化面でも「かみて」は左(客席から舞台に向かって右)「しもて」は右(向かって左)になっています。この左上位の風習はそのまま現代にも引き継がれており、男性優位のため関西では京風の内裏雛は向かって右に男雛、向かって左に女雛が並んでいます。関東風ではその逆です。現在のような関東式の内裏雛の位置=男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)に定着したのは昭和になってからのことのようです。文明開化の影響を受け、それが皇室中心に取り入れられていき、西洋式の右優先が浸透し、昭和になって内裏雛の並べ方にも反映していったのだといわれています。

 現在の飾り雛の起源はいつごろなのでしょうか。雛はもともと身体をなでて穢れを祓い、水に流していたもので、いまでも地方では流し雛の風習があります。雛は(あま)(かつ)這子(ほうこ)などといって幼児の形の白いぬいぐるみで、幼児の枕元に置きお守りとしたものといわれています。それにきれいな着物を着せ、雛遊びの風習が生まれました。それがすわり雛になり、現在のようなお雛様の原型ができたのは、徳川二代将軍徳川秀忠の娘、東福門院が後水尾天皇の中宮になり、紫衣事件・春日の局事件のために天皇は6歳の内親王に位を譲り、女帝明正天皇の出現となります。それまで内親王が健やかに育ち、美しい花嫁になることを願っていたのですが、天皇になったのでは結婚はできないと考えた母親の東福門院は、娘の幸せを夢見た押し絵の掛け軸を作りました。美女の誉れ高い小野小町、美男で名高い在原業平をモデルに夫婦の座り雛を、男雛を右(向かって左)女雛を左(向かって右)に描いたのが現在の雛の始まりです。ただそのとき内親王が天皇になったので女雛を左上位の位置に置いたのです。

 内裏雛から三仕丁(じちょう)までの15人と雛壇の供物・道具などが完成したのは江戸時代末期で、宮廷の優雅な宴をもとにして出来上がり、のどかな春の遊びの再現であったのでしょう。桃の節句は本来上巳(じょうし)の節句といわれていたもので、この日には厄からまぬかれ、不浄を除くための祓えの日でした。桃の花がちょうど盛りになり、その美しさを称える意味もあり、桃の節句とも言われたのでしょう。桃には古来より邪気を払い百鬼を制するという魔よけの信仰もありました。桃は春早く花が咲き、多くの実をつける多産の木であり、古事記にも桃の呪いについて書いてあるように聖なる木と考えられていたのです。少女の髪型である桃割も女の子の末長い幸せを祈るところから名づけられたものかもわかりません。

供物についてはどうでしょうか。「吸い物の蛤」は、貝合わせなどの遊びでわかるように、他の貝とは決して合わないのです。したがって一夫一婦の教えとなっていますし、一つの貝に身を二つ入れるのがしきたりとなっています。また西洋でもビーナスの貝ともいわれ、美と愛と性の神の名前で呼ばれています。「菱餅」はインドの仏典の説話に習ったもので、子供の生命を救ってくれた菱の実に感謝してのものだそうです。菱の実は食べるとその味は、子供と同じ味がするといわれています。子供を生贄にする代わりに菱の実を龍に捧げ、子供の命を救ったと言われています。蓬の緑、桃の花で色づけした赤、そして白の三色は健康と魔除けと清浄を意味し、子供の無事成長を祈ったのです。

女の子の無事成長を祈ったかげには、真実の如何はわかりませんが、悲しい物語が秘められているのです。女性は生まれながらにして悲しい宿命を背負っていたのでしょうか。それを桃の節句で、祓い清めて幸せを願ったのでしょう。そんなことを思いながら桃の花を飾り、白酒を買い求めてひな祭りを祝いたいと思っています。



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