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★ 塔影能と仏像めぐり (リソースボランティア 長濱紅
 古都奈良の興福寺に、ライトアップされた五重の塔が重厚な姿を現し、西天に宵の明星が輝きを増しはじめたころ、東金堂に向かって設えられた能舞台で奉納能が行われた。勿論奉納であるから東金堂の薬師如来、文殊菩薩、維摩居士へ般若心経を奉納し、舞囃子の「天鼓」をかわきりに狂言を挟んで「紅葉狩」が上演された。

もみじにはまだ少々早い時期ではあったが、澄み切った夜空に鼓や笛の音が冴え渡り、頬をかすめる風はひんやりとして、おのずから身が引き締まる思いであった。闇夜の中で、そこだけが明るく浮かび上がった舞台の上で、静寂な中で彩りの華やかな衣装をつけての「紅葉狩」は、なんとも形容の仕様がないほどの幽玄で優雅さをかもし出し、時代を、世俗を忘れさせてくれる。しかし時折その静寂を破るオートバイのエンジン音が、私を現世へと引き戻す。お能を楽しむという薪能とはまったく違った趣で、仏への奉納を私たちもともにお相伴させていただいているという思いに取り付かれる。東金堂との間に席が設けられているので、仏たちにお尻をむけ、仏より先に能を拝見するのがなんだかこそばゆく、申し訳ないように感じる。

今年は金剛流宗家の「紅葉狩」で、ただシテを舞う上臈の後ろ姿があまりにもいかつく、男性を思わせ、衣装も、他の女人方を舞うツレの衣装が「忍ぶ文字摺り誰ぞとも。」と謡われるように捩摺や紅葉で秋のものであったのに対して、蝶であったのが何か季節的に合わないような気がしたのは、素人の考えで、そこには何か意味があるのだろうか。何はともあれ、日本の伝統美を心ゆくまで堪能した夜であった。


  君と見し 奈良のみ寺の 塔影能 今宵はひとり 紅葉狩を見ゆ

翌日は「一休さ〜ん!」「は〜い!」というTV漫画でおなじみだった一休寺をしばらくぶりで訪れ、(お庭が素晴らしいので訪れたのだが、)おぼつかない私たちを見ているとどうも説明がしたくなるのか、ボランテイアの方の懇切丁寧な説明を聞いたり、創建当時からの松の古木に見とれたり、拝観者たちを横目に見て、私たちだけの空間と時間を堪能した。その後、観音寺の十一面観音(聖林寺の十一面観音より女性的で柔らかい感じがする)、寿宝寺の十一面千手観音を拝見した。本当に千手ある観音は今解体修理中の唐招提寺、藤井寺の千手観音と三体だけで、千手には、その一手ずつの掌に一目を現しているのが原則で、それもライトを当てて見せていただき、私はこれで三体を拝見したことになり、幸せを感じた。昼の太陽の光りでは、唇は厚く、色鮮やかな赤色で、目が大きくぎょろりとして、まるで心の奥を見透かされているようなおそれを抱き、叱咤激励を受けているような思いに陥る。が、月光に映し出されるお顔は伏し目がちに、唇は淡い朱色で薄く、頬の線まで優しく慈悲に満ちたお顔になられ、今日も一日よく頑張ったねと語りかけられているようで、なんとも不思議で、彫りの線の深さと光の強さ、光線の向きによって同じ仏像がこんなにも違って感じられるのかと、そのころの仏師の計算され尽くした技法にただただ感嘆の声を上げるのみであった。

 3日目は京都へ出て、三千院の阿弥陀三尊仏を拝見し、観音・勢至菩薩の大和坐り(珍しい座り方なのだが)を心ゆくまで拝見し、群青色(古代では最も貴重で高価な顔料とされている)の天井に飛天が飛んでいるといわれる舟底天井をライトで見せてもらい、色も鮮やかに描かれた当時を想像し、その下に金色に燦然と輝く阿弥陀三尊の姿に思いを馳せ、光の移ろいに従い仏のお顔の表情も変わっていく様子を実感できたことの喜びを感謝しないではいられなかった。仏様とは祈りの心でゆっくりと対座するものであって、心と時間と光によって仏と心を通わすことができるものなのだと、やっと古代の人々の祈りの世界がすこし見えてきたような、そんな気持ちのする旅であった。

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